vendredi 28 mai 2010

モスクワーキンシャサ空路開設か ouverture de la ligne aérienne entre Moscou et Kinshasa ?

5月27日のインタネット新聞Digitalcongoによれば、ロシアもDRCongoに攻勢をかけてきている。モスクワとキンシャサに直行便が飛ぶ可能性もでてきた。

Un lien aérien Moscou-Kinshasa pour une meilleure liaison économique entre la Russie et la RDC
Kinshasa, 27/05/2010 /
La Fédération des Entreprises du Congo, la FEC, et la Chambre de Commerce et D’industrie de la Fédération de Russie viennent, au terme du Forum d’affaires qui s’est tenu à Kinshasa le 24 et 25 mai dernier, d’établir une liaison aérienne Moscou-Kinshasa pour fructifier les échanges économiques entre la Russie et la RDC.

コンゴ中央銀行の政策金利 taux directeur de la BCC

コンゴ中央銀行が公定歩合の引き下げを発表した。日銀は公定歩合という名称を使わなくなって久しいが、その基準割引率および基準貸付利率は0.3%である。アメリカが0.75%。BCC(コンゴ中銀)の公定歩合が70%から48%に引き下げられた。2006年にRDCの民間銀行の貸出し金利をきいたとき、既に驚くべき数値がでていた。今、公定歩合がたとえ48%になったところで、民間銀行の貸出しが増えるとも思えない。つまり投資が増えるとはいえない。金利の高さは、闇経済が跋扈する要因のひとつである。預金金利がでは高いかというとそうでもない。金融市場はなきに等しい。確かにここ6ヶ月、為替市場は比較的安定している。1ドル=900フラン前後で推移していた。インフレ率は1月の50%から4月の12%へと落着いてきている。外貨準備金が1700万ドル。これはないよりましというだけ。経済成長率は年換算3~3.5%だそうだ。この成長も、ベースが低いのだから低迷もいいところだ。海外からの投資を呼び込み、関税を引き下げ、税収を上げ、雇用を促進しない限り早期経済回復はない。ドル・リンクは危険だと思う。アルゼンチンの例がある。為替管理をして、中国の成長をみならうことだ。世銀やIMFに牛耳られていては将来はない。世界的にみても地下資源だけではなく、耕作可能面積も広大で、人口だって7000万人以上あるのだ。それでアフリカの、いや、世界の大国になれないのは政治が悪い。しかし、政治が悪いなんていってられないだろう。自分の頭で考えよ。そして各々が各々の分野でチャレンジしていかないといけない。RDCの国歌はこんなフレーズで始まる。『立て、コンゴの民よ!Debout Congolais !』

以下は国連放送局「オカピ」の記事(5月25日)から引用。
L’économie congolaise en progression prudente à l’approche du 30 juinLe secteur minier est parmi les bien cotés ces derniers moisLa Banque centrale du Congo (BCC) vient de baisser à nouveau son taux directeur de 70 à 42% en l’espace de deux mois. L’inflation annualisée est de 12%, contre 50% au mois de janvier. C’est ce qu’indique la toute dernière note de conjoncture économique de la RDC publiée par la BCC.Avec un taux directeur qui baisse, cela peut encourager la consommation et donc toute l’économie.Cela montre que l’augmentation des prix des biens de consommation ralentit de manière générale.A part l’inflation, qui semble être maîtrisée, le taux de change est resté constant ces six derniers mois à environ 900 FC pour un dollar.La première moitié de l’année pourrait connaître une fin heureuse, estime un analyste.Excédent budgétaireLes mines et les hydrocarbures, selon la BCC, affichent une croissance de presque 3,5% et le secteur manufacturier fait un tout petit peu moins.Par contre, dans le secteur énergétique, la cote est encore négative.Jusqu’à la mi-mai, la caisse de l’Etat était excédentaire avec 17 millions de dollars. En d’autres termes, il y a eu moins de dépenses et plus de recettes.C’est sur ce point que les institutions financières internationales ont toujours insisté auprès du gouvernement congolais.Risque de dérapageSi cette tendance perdure, estime la BCC, ceci faciliterait l’annulation de la dette extérieure, prévue après le 30 juin 2010.Les experts craignent que les festivités du cinquantenaire de l’indépendance de la RDC éloignent ce point d’achèvement du processus Pays pauvres très endettés (PPTE).Leurs inquiétudes portent surtout sur les dépenses qui pourraient être engagées pour assurer la sécurité des nombreux invités attendus à cette fête.Au moindre dérapage, estiment-ils, plusieurs acquis de la stabilité économique s’envoleront.Certaines banques commerciales ont commencé à anticiper une pression pour ne pas chanceler à l’approche du 30 juin.Le gouvernement ferait mieux d’utiliser les excédents réalisés au cours des mois passés et de ne pas recourir à la planche à billet, conseillent certains banquiers.

mercredi 26 mai 2010

ルブンバシのゴルフ場 terrain de golf de Lubumbashi


5月25日14時、ゴルフ場を見学した。そうゴルフ場がルブンバシにある。さぞかし荒れたゴルフ場だろうと想像しながら行ってみると、想像を絶したグリーンであった。別天地といってもいい。

僕はゴルフが出来ない。日本やスイス等の国でゴルフ場を脇にみても、入ったことがない。アルジェのゴルフ場は砂漠だときいたことがある。

日本のビジネスマンはゴルフが好きである。大学の同窓は、時折集まってコンペをしている。ルブンバシに来ていただく日本の企業の方々に楽しみがなくてはいけない。如何でしょう、世界的に有名なゴルフ好きの国王がいたモロッコのゴルフ場にも劣らないルブンバシでゴルフ三昧、ビジネスもすすむこと疑いなし。
ルブンバシのゴルフ・クラブはまもなく開設100年になる伝統を誇っている。六甲に遅れること10年。18ホール。ヴィジターのプレーを認めない。会員はプレーヤーを3回だけ招待することができるけれど、それ以上は規則で不可能。メンバーは60名ほどしかいない。ほぼ全員が外国人。しかし、会費さえ払えばメンバーになれる。今のところ人数制限がない。年会費は1 000ドル。夫婦のカップルなら1 400ドル。メンバーになればプレー費用はかからない。この敷地の中にスカッシュsquashのコートとサッカーのコートもある。こちらは年会費それぞれ400ドルと300ドルである。昔は乗馬も出来たはずであるが、それは今ない。

ゴリラ gorille


ゴリラのことを話そう。
コンゴの話題というと内戦かゴリラのことしか日本では報道されない。クジラとゴリラは動物の間でも特別扱いで、ゴリラが一頭死んでも話題になる。
僕はこの国でまだゴリラをみたことがない。ルブンバシ動物園にもいなかった。ゴリラには低地ゴリラと山岳ゴリラがあるが、山岳ゴリラの生息地はルブンバシから遠く数千キロ離れた東部山岳地帯である。ルワンダ、ウガンダとの国境。ゴリラに国境はないから三国に跨って生息している。そこにはカリシンビKarisimbi休火山がある。標高4507メーターというから富士山よりもかなり高い。ビルンガVirunga山脈の最高峰である。万年雪というよりも、雹・霰(あられ)などが年間を通じて降るそうだ。カリシンビ山は世界遺産でもあるビルンガ国立公園(79万ヘクタール、静岡県全体より広い)の中にある。そこで母子4頭のゴリラが凍死した。それがAFPのニュースになったのである。WWFや世界中のNPOが約700頭の山岳ゴリラの観察・保護を行っている。
AFP報道は隣国ルワンダの首都キガリから発信されている。
Rwanda: 4 gorilles des montagnes meurent de froid dans le parc des volcans
(AFP)
KIGALI — Quatre gorilles des montagnes, une femelle et trois bébés, sont morts, vraisemblablement de froid, dans le nord-ouest du Rwanda, dans la région des volcans, frontalière avec la République démocratique du Congo (RDC), a-t-on appris jeudi de sources concordantes.
Le Fonds mondial pour la nature (WWF) "a appris avec tristesse la mort de quatre gorilles des montagnes dans le Parc national des Volcans au Rwanda", indique un communiqué de cette organisation de défense de l'environnement.
"La cause exacte de leur décès n'est pas encore connue, mais il semble que les gorilles sont morts en raison du froid et des pluies diluviennes", explique le WWF.
"Les gorilles sont actuellement installés à une haute altitude sur les flancs du mont Karisimbi (qui culmine à 4.507 mètres), et les températures y sont encore plus froides", souligne le texte.
Il n'y avait aucun indice de violences ou de présence de poison laissant penser à une mort non-naturelle, selon le WWF, qui précise que les cadavres des quatre primates seront autopsiés.
Les quatre gorilles, une femelle et trois bébés, appartenaient à un groupe baptisé "Pablo". Il ont été retrouvés en début de semaine par des rangers du centre de recherche de Karisoke, dans les montagnes du nord-ouest du Rwanda.
"La mort soudaine de ces quatre gorilles n'est pas seulement un choc, c'est aussi une énorme perte pour le Rwanda et pour toute l'équipe de conservation" des gorilles des montagnes, a commenté Rica Rwigamba, en charge du tourisme au sein du Bureau de développement du Rwanda.
Près de 700 gorilles des montagnes, une espèce menacée d'extinction, vivent dans cette région des volcans, à cheval entre le Rwanda, l'Ouganda et la RDC.

vendredi 21 mai 2010

ウラン鉱山シンコロブウェ mine d'uranium Shinkolobwe

Global Witnessの『Ruée et ruine』という2004年9月のレポートを読んだ。意訳すると『廃墟に殺到する者たち』。副題として『コンゴ民主共和国カタンガ州南部の鉱物資源を荒廃させる貿易』(Le commerce dévastateur des ressources minières dans le Sud du Katanga en République démocratique du Congo)とある。
Global Witnessはワシントンに本部があるNGOである。2003年のノーベル平和賞を受けている。受賞対象ワークは『ダイアモンド戦争』(アンゴラ、シェラレオーネそしてコンゴから産出されたダイアモンドが如何にこれらの国の内戦の戦費になっているのかをレポートしたもの)である。レポートは一回出されたきりではない。よくフォローされている。
http://www.globalwitness.org/index.php
『廃墟に殺到する者たち』の廃墟とは閉山した鉱山である。しかし、閉山と云っても鉱物資源が枯れたわけではない。手掘りの採掘exploitation artisanaleは続いている。このことは児童労働の項で書いた(5月13日)。レポートの格調は極めて高い。援助国、世銀、IMFおよびコンゴ(RDC)政府に対してリコメンデイションを発信している。当然のことながら日本政府もきく耳を持たねばならない。このレポートに特に日本にとって無関心でいてはならないことがレポートされている。それはシンコロブウェShinkolobwe鉱山である。カタンガ州の州都ルブンバシから北に150km。リカシ市に近い。この鉱山で採掘されたウランが広島・長崎の原爆製造に使用されたことは余りにも有名である。Shinkolobwe鉱山は1960年に閉鎖された。コンゴが独立前にベルギーが坑口をコンクリートで塞いだ。しかしながら、それは建前である。いかなる鉱山会社もその後採掘事業をShinkolobweで行っていない。けれども2004年7月、二つの竪坑が落盤事故を起こしている。誰もいないのに? 冗談ではない。7 000から13 000人の手掘り労働者が毎日ひしめいていたのである。その中には7歳の子どもたちもいた。少なくとも9名の犠牲者が出たというが詳しいことは明らかにされていない。その後、鉱山に入る監視が厳しくなったという。それも建前である。確かに軍隊や警察が監視しているだろう。しかし、その監視員に多少、たとえば10ドルも握らせれば、簡単に入山できることは間違いない。
Shinkolobwe鉱山で1939年、従ってコンゴがベルギーの植民地だった当時、鉱山の持ち主であったUnion Minière社(現Gecamines社)から12 000トンのウランがUSAに売却された。その頃、採掘した労働者、また閉山後営々と手彫りで、違法とはいえ労働していた人々が、放射能で汚染されたことも事実だが、ベルギーもコンゴも口を閉ざしている。広島・長崎の原爆は単なる新型爆弾、恐ろしい破壊力をもった爆弾ではなかった。被爆者、その子、その孫までが放射能radioactivitéの犠牲者である。日本は原爆の最初の犠牲者である。多くの苦く深刻な経験を持っている。その日本がコンゴの犠牲者に経験を生かすことができないのか。被爆者の発見、治療に手を貸せないのか。60年以上前のことはベルギーの責任、不法採掘は自己責任またはコンゴの責任だから知らない、さらにコンゴ(RDC)政府から要請がないから知らない、と決め込んでいていいのか。

教育養子縁組NPO「ALBA」 Associazone Laica Bambini Africani

5月18日15時半、Child Sponsor NPO「Alba」を訪ねた。1992年創立。「Association Laique pour les Bambins d’Afrique(アフリカの子らのための非宗教系協会)」のGabriele SALMIさんが会ってくれた。ミラノ出身。奥様はコンゴの人だそうだ。2004年からルブンバシに来ている。
http://www.albacongo.org/ たいしたサイトじゃないとGabrieleさんは謙遜していたが、どうしてなかなか良く活動が説明されている。

教育養子縁組は個人単位並びに学校単位で実施している。対象地域はルブンバシとキプシである。年齢は6歳から20歳まで、スポンサーとなるのはミラノだけではなくイタリア各地のイタリア人。子どもとの連絡は、殆どの費用を食ってしまうがDHL。インターネットは、イタリア側のサポーターの多くが50歳以上なので、ネットになれていないので使えない。子ども一人当たりの教育養子費用は年間€180。靴額€15だから現行レートで1 700円程度。世界的不況で、サポータの数も昨年から減ってきているというが、約10 000人の生徒・学生が恩恵を受けている。大学生でもコンゴには奨学金制度がない。

経費捻出のために国連の運送関連のmangaementおよび米系TFM社(Tenke Fungurume Mining、Free Port Mc MoRAN COPPER & Gold社傘下)が従業員用に建設した学校(3校、生徒900名)の運営もまかされてしているという(TFMの学校には職業訓練も含む。ルブンバシは建設ラッシュで専門職技能者が不足しており、TFMは2000名の専門職を海外から調達している!)。
僕は今後、教育養子を進めていくに当たり、「ALBA」のアドヴァイスを貰おうと思う。「ALBA」の信頼性は高いと判断するからである。

mercredi 19 mai 2010

ロラン・デズィレ・カビラ Laurent Désiré Kabila


5月17日(月)は現大統領Joseph Kabilaの父親、前大統領Laurent Désiré Kabilaが首都キンシャサに入城した日として旗日であった。モブツ独裁時代の終焉である。Laurent Désiré Kabilaは、政治家、革命家というより商売人と云われたことがある(キューバ革命を成し遂げたチェ・ゲバラはコンゴで革命運動に参加したことがあるが、当時のLDカビラを称して「反逆者というよりは密輸業者だ」と云ったという)。けれども、今振返ると、なかなか厳しい政策、公平な政策でモブツと対照的であったようである。「あのときコンゴに光が射した」という国民も少なくない。大統領就任宣言をしてから4年足らず2001年1月に暗殺されて、元の木阿弥というわけである。
LD Kabilaはカタンガ州出身である。生まれは1939年。モブツに反抗すること30有余年。しかし、モブツを追い出すのに隣国ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ジンバブウェ等の力を借りた。政権奪取後、これら外国の影響を払拭するのに懸命だった。LD Kabilaの暗殺の背景に誰がいたのか不明である。
はっきりしているのは、LD Kabilaの跡を継いだのが、その息子Joseph Kabilaであることだ。大統領職を継いだが、家長ではないらしい。Josephが確かにLDの息子であるのかどうか、それまた不明な要素である。ともかくJosephは2006年の大統領選挙で選出されて国内外での禊は済んだ。
それにしても、この国の独立は、僕にいわせれば、未だない。Josephの裏にいるのはIMFと世銀と考える。何故なら、国の財政を真に握っているのは、これら国際機関だから。コンゴ中央銀行は発券銀行に違いないが、500フラン(50円)以上の札を印刷できない。米ドルが流通通貨である。株式市場もない。
息子Joseph Kabilaと2006年に大統領選挙を争い、落選してJosephの副大統領におさまり、今はハーグ国際刑事裁判所で審理中のベンバは、非人道的戦争犯罪者として有罪判決を受けるかも知れないが、Josephの父Laurent Désiréも五十歩百歩である。
LD Kabilaの歴史的評価にはまだまだ時間がかかろう。

lundi 17 mai 2010

トウモロコシを作ろう! cultivons le maïs !

カタンガ州は鉱山の州である。ここで鉱山開発をする企業は皆トウモロコシを作らなければならない。それが知事モイーズ・カトゥンビMoïse Katumbi(写真)の号令だ。
カタンガ州はトウモロコシを南の隣国ザンビアから輸入している。広大な土地がカタンガにはあるというのにだ。モイーズは自分でも範を垂れるべく、自分の農場でもトウモロコシを作っている。彼の農場はルブンバシの郊外にあり、公開されている。空港の近くである。
大統領Joseph Kabilaもルブンバシ郊外、カスンバレサに向かう有料道路の右手に農場を持っており、そこでもトウモロコシを作っている。初めての収穫は来月だそうだ。

以下の記事に見えるBazano Mining(レバノン系)は700ha、Fisrt Quantum(カナダ系)は500haの土地でトウモロコシを作り市場に出した。

日本がカタンガ州に進出するときは1000haの稲作では如何。カタンガ州の主食は、トウモロコシの粉とマニョックmanioc(別称キャッサバ)の粉を混ぜた蒸しパンであるが、米も結構食している。アフリカに米を持ち込んだのは、インドシナを植民地化したフランス人といわれるが、インド人、中国人もアフリカに古くから来ているから、その真相はわからない。
les avantages de la production locale de maïs
17-05-2010
L'appel du gouverneur du Katanga pour le retour à la terre a été entendu.
Depuis que le maïs est produit localement par les entreprises minières et de petits agriculteurs qui s'en étaient longtemps désintéressés, les prix du maïs commencent à baisser sensiblement au Katanga.
Les baisses de prix vont du simple au double (de 25 000 francs congolais à 15 000 francs congolais, soit de 27,7 $ à 16,6 $).
Cependant, on déplore la faiblesse de la production, la province dépendant encore de la Zambie pour son approvisionnement.
Le gouverneur de cette province minière du sud-est de la République démocratique du Congo, Moïse Katumbi, rappelait justement que « les mines sont épuisables alors que la terre est fertile ».
De grosses entreprises minières y ont déjà investi. Bazano Mining, notamment, avec ses 700 ha cultivés, a déjà mis sa production de maïs moulu sur le marché local, ainsi que First Quantum qui possède 500 ha de champs.
Les autorités ne sont pas en reste, vu que le gouverneur lui-même cultive pour donner l'exemple.
De même, la ferme Espoir (700 ha) du président Kabila, à 12 km de Lubumbashi, attend ses premières récoltes en juin prochain.

(『Les Afriques』誌から)

dimanche 16 mai 2010

ヤマハ発動機 Yamaha Motor

5月15日(土)11時半、Lomani通りに出来たヤマハ発動機のショー・ルームを訪問。ルブンバシの中心街である。キンシャサやゴマには既に開店しているそうだ。RD Congoにヤマハが直接入っているわけではない。ヤマハのホーム・ページを見るとアフリカ大陸には支社も合弁会社もない。ここではインド系商社Prodimpex社(Rawji Group)が代理店である。小型発電機、船外機、オートバイ、トラクターなどが展示されていた。大型発電機はイタリアのIveco社製だった。責任者はNikhil Gandhi氏。
http://www.prodimpex.com/
ショー・ルームの奥がなお建設中で倉庫、2階・3階が住居だそうだ。ヤマハ製品は純日本製だという。Prodimpex社経由のように、日系企業が先ずは代理店方式でコンゴに進出するのはいいことだが、直接進出する勇気も持って欲しい。

samedi 15 mai 2010

日本人墓地 cimetière japonais à L'shi


5月15日10時、日本人墓地に行った。日本人墓地といっても市営の広い墓地の一画である。ルブンバシで一番古い墓地「モミの木墓地Ⅰsapin-Ⅰ」である。当初Sodimiza(現Sodimico)の従業員で亡くなられた方の墓地と聞いていったのだが、墓碑に書かれた享年(昭和年号がつかわれていた)から、Sodimiza関係の方ではない可能性が高い。1967年から1973年にかけてなくなられた6名の墓であった。全員とても若い。26歳から37歳。どういう経緯でルブンバシで、あるいはカタンガ州で亡くなられたのか不明。墓石は日本語(漢字)でかなりの達筆で名前が彫られていた。戒名はない。この墓地には、キリスト教、ユダヤ教、回教等宗教の異なった人たちが埋葬されているから、仏式があっても不思議はないのだが、宗教色がない墓石であった。全て同じ型の墓石であった。従って、1973年以降に一括して誰かが墓石を建てた可能性もある。習慣だけでなく、ルブンバシに施設がないから火葬はない。周り中雑草に覆われていて、この国では毎年8月1日が墓参り、先祖の日だが、訪れる人が全くないのに違いない。といっても、この墓地全体がぼうぼうの草の中なのであるが。名前と出身地を頼りに、全員をネットで調べてみたが、それらしい記事はなかった。
亡くなられた方々のフル・ネームはここでは公開しないが、出身地、享年、命日を下記する。
京都 KSさん 26歳 昭和48年2月3日
福島 ENさん 27歳 昭和47年3月4日
東京 KKさん 29歳 昭和46年10月8日
高地 OTさん 36歳 昭和46年9月28日
香川 KYさん 37歳 昭和43年9月29日
山口 HTさん 36歳 昭和42年3月10日
万が一、本誌をご覧になった方の中で、連絡を望まれる場合は、小生にメイルをください。またはブログのコメント欄をご利用ください。
(訂正追記: Sodimizaの従業員ではない可能性と書いたが、Sodimizaの開所式は70年代だが、探鉱、また工場だけでなく付帯施設の建設のため1967年ころから既に工事が始まっており、やはりSodimiza関連の方々のようである。本ブログを読まれた方からその可能性を示唆いただいた)。

児童労働解消を目指すNPO「Groupe ONE」 réinsertion des mineurs enfants par Groupe ONE, ONG belge

5月13日(木)11時、児童労働をなくす運動をしているNPO「Groupe One」を訪ねた。ベルギーのONGである。その現場事務所がルブンバシにある。
http://www.groupeone.be/ (英語のページもある)
ルブンバシ事務所のFifiさんに会った。カタンガ州における児童労働は主として鉱山で行われている。確かに他にも例えば靴磨きをしていたり、物を行商していたり、洗車したりといった労働に子どもたちがいる。しかし、集中して子どもたちが働いているのはGroupe Oneの云うように鉱山、しかもartisanal exploitaionである。ここでartisanaltというのは辞書にある「職業的、手工業的」というよりも「前近代的」、「手仕事の」という意味である。子どもたちは、ストリート・チルドレンではない。親が子どもたちを鉱山に送っているのである。理由は、親が失業、老齢、病気など様々であるが、子どもが一家の稼ぎ頭であることが多い。Groupe Oneでは、年齢を16歳で分けて、16歳未満は学童として学校に通わせ、16歳以上は職業訓練所にいかせる、また両親の再教育をして手に職をつけさせるという3方面の活動をしている。子どもの学資支援をしただけでは、親としては、いや一家としては収入が途絶えるから就学に賛成しない。大部分の子どもたちは学校に行きたい。それを可能にするためには親が働くようにしなければ解決しない。こうして、過去4年間で児童600名、16歳以上については250名の少年少女たちを児童労働から救ったそうである。16歳以上というと日本では義務教育年齢以上であり、救済の対象とはならないと思う。中学を卒業して、集団就職した少年たちを雇った企業は児童労働をさせたということになってしまう。16歳以上では鉱山に残りたいという向きさえある。しかし、欧州の標準は、学齢というと18歳以下のようである。カタンガ州で、どれだけの子どもたちが鉱山で働いているのか具体的数字はつかめない。2006年、Groupe OneとUnicefがルブンバシ大学の協力も得て調査したレポートがある。しかし、これはカタンガ州の3地点(ルブンバシ、コルウェジ、リカシ)で18歳以下692名の少年少女労働者にアンケート調査しただけである。実際にはもっともっと多くの児童が鉱山で働いている。このNGOではそれぞれ活動の地の小学校や中学校、また職業訓練所と提携している。事務所には図書館、勉強部屋もあった。Groupe Oneの事業はまだまだ続けられる。

mercredi 12 mai 2010

児童労働 / 教育里親制度 travail des enfants/parrainage humanitaire d'enfants

Le mardi 11 mai 2010
カタンガ州は鉱山の州である。鉱山労働者が多い。大抵の鉱山は露天掘りである。農業に適する土地も広大だが、生産した農産物を都会に運ぶインフラが退化して、農業で生活できるのは都会の周辺だけになった。カタンガ州が日本の総面積よりも広いことを念頭にいれて欲しい。至る所に鉱脈があり、地表に露出している鉱物を、機械ではなく手掘りすることが可能である。政府が決めた鉱区の中には、企業が調査・開発・採掘している鉱区以外に、住民が原始的方法で、つまりスコップやツルハシで地表を掘って鉱物を採ってもよい鉱区が指定されている。フランシスコ会の学校があるLwisha(ルブンバシの北方90km)周辺の事情については既に書いた(本ブログ1月30日の記事参照)。記事では鉱山から出た水を汲みにきている子どもたちのことを書いたが、実は露天掘りをしている労働者の中に少なからず子どもたちがいた。これは、両親、保護者が子どもたちを働かせているのだ。ところが、中小鉱山会社が子どもたちを働かせている、または子どもたちが構内に入るのを(積極的に)黙認している例も多々あるようだ。たとえばRwashi Mining(レバノン系)。地表を掘っている人たちをcreuseur(クルズール)という。creuserという動詞からくる言葉だが辞書にはない。露天掘りが多いと書いたが、地上からそれほど深くないところに坑道(縦穴、横穴)を掘って鉱石を採掘している場合もある。その坑道が異常に狭い。大人が入れないような低い天井、狭い幅の坑道である。明らかに子どもたちが坑夫enfants creuseursとして初めから予定されている例だ。Lwishaの鉱山跡地でこの目でみた。しかし、それは過去の話かと勝手に想像していた。しかし、どうもそうではない。この国に義務教育を定める法律はない。就学させない親の責任は問われない。子どもたちの労働力を親が当てにしている。水汲みだけではない。

アラン君(「協会」の会計総責任、学生だが文法具を商っている)のところに土埃まみれの少年がノートを買いにきた。不審に思ってアラン君がきいた。Rwashiの鉱山で働いているという。どうみてもまだ学童年齢だ。勉強が好きだけれど、鉱山で仕事もしなければいけないという。鉱山の仕事の見入りは、この歳の少年にとって他の仕事(あれば)よりもいいらしい。今度詳しくその少年にきいてみよう。連絡はつく。なんと携帯をもっているのだ。教育里親制度というのがある。有名なのはフォスタープランであろう。『文芸春秋』によく広告がでていた。しかし、このフォスタープランからも、サイトをみるとアフリカ諸国の中でコンゴは外されている!http://www.plan-japan.org/kodomo/index.html「日本カタンガ協会」でもそのスキームを援用して、教育里親制度をつくろう。先ず「隗より始めよ」である。僕自身が里親になることにする。そんなに多数の子どもたちを養える資力はないが、100ドル(9 000円から10 000円)あれば、小学校の年間の学費が払える。決めた。シスター・アスンタ佐野さんも何人かの教育里親だ。中には看護学校まで卒業した少女もいるそうである。それからできれば日本のONGと提携して教育里親をカタンガ州でひろめる。郵便制度が破壊されたままのカタンガ州では、子どもたちの成長を見たいという教育里親に近況を伝える手段はインターネットだ。
里親というのは、実は語弊がある。英語ではchild sponsorship、フランス語は表題に書いたが、説明的な用語だけれども、parrainage humanitaire d'enfants即ち「子どもたちへの人道的後援」である。子どもたちを助ける方法に養子縁組adoptionもあるが、それでは多くの場合子どもを両親から、国から、その文化から離してしまう。子どもとある絆を保ちながら後援していくのが教育里親ということになる。

lundi 10 mai 2010

ダカール・ビエンナーレでコンゴのアーチストが大賞 Dak'Art 2010: le grand prix renporté par un artiste congolais

5月10日 le 10 mai 2010

セネガルの首都ダカールで開かれているビエンナーレでコンゴの画家キテンゲ・バンザが大賞(サンゴール賞)を受賞した。抽象画だが、僕はこんな絵が好きである。サンゴールは勿論セネガルの初代大統領にしてフランス・アカデミーの会員である詩人の名前である。
キテンゲ・バンザはホームページをもっている。http://web.mac.com/rmendia/MORIDJA/MORIDJA_KITENGE_BANZA.html

大賞は逃したがオランダの基金タムジディ賞を受賞して北京三ヶ月滞在の副賞を得たのはモロッコの画家だ。日本の東京ではなく中国の北京である。

Dakar, Sénégal - L'artiste Moridja Kintenge Benza de la République démocratique du Congo (RDC) a remporté vendredi à Dakar, le Grand prix de la 9ème édition de la Biennale de l'art africain contemporain de Dakar (Dak'Art 2010 - du 7 mai au 7 juin), qui marque également le 20ème anniversaire de ladite manifestation.Ce prix portant le nom du premier président de la République du Sénégal, Léopold Sédar Senghor, est doté d'une enveloppe de 5 millions de francs CFA (10.000 dollars américains) et d'une résidence artistique dénommée "Résidence Vives voix". (Afrique en ligneより)

岡田外務大臣アフリカ訪問 visite du Ministre japonais des A.E. M. Okada en Afrique

5月10日(月) le lundi 10 mai 2010
日本の外務大臣岡田克也さん、ゴールデン・ウィークにアフリカに来ていた。南ア、タンザニア訪問記事が彼のブログに出ていた。

タンザニアでTICADⅣのフォローアップ会議に出席。場所はアルーシャ。アルーシャの町はキリマンジャーロの登山口だ。観光地。そこから日本のODAで隣国ケニアのナイロビまでの道路拡張工事が進められている。この会議で共同議長をして「アフリカ向けODAを2012年までに倍増する」と宣言した! 朝日新聞報道では「重点的に取り組む分野としては、(1)経済危機からの回復(2)ミレニアム開発目標の達成(3)気候変動の三つを提示。円借款の積極活用で今後2年間で最大20億ドル(約1900億円)相当のインフラ整備を実施することや、世界エイズ・結核・マラリア対策基金に今年も2億4千万ドルを拠出することを表明した」。その通りになって欲しいものだ。一方行く先々、会う人ごとに国連改革、日本の常任理事国入りをお願いしたようだ。その国連での票とバーターとしてもODAや円クレが増額されるに越したことはない。しかし、本質は、日本の企業がアフリカに、コンゴに進出してくれることである。そのための魅力作りはコンゴ側にも必要なことである。特に通関、行政許認可の簡略化が望まれる。
岡田さんのアフリカ訪問は僕たちに希望を持たせてくれる。ゴールデン・ウィークに欧米に行かず、普天間基地問題で大変な中、アフリカまできてくれたのだから。

vendredi 7 mai 2010

フランシスコ会タバ・コンゴ施設 dispensaire franciscain du quartier Tabac Congo de Lubumbashi

診療所の建物と入り口
産院。コの字型で中庭とは低い壁を作って、ベッド・ルームが見えないようにした。
新生児。

井戸。深い井戸だが、手押しポンプ。
5月7日午後、シスターアスンタさんとタバ・コンゴ地区(近くにタバコ工場があるのでこう呼ばれている)にある、フランシスコ会の診療所、産院、修道院、女子裁縫中学学校を見学した。前もって云われたように途中から相当の悪路だった。施設はみなこじんまりとしていた。贅沢な作りではないが、しっかりとした建物である。シスター・アスンタさんはこの施設ができたころ、1987年から数年ここで看護師として働いていた。今は住宅が密集しているが、当時は周りに人家がなく、あっても藁葺きの家が多かったという。バスもなく、歩いてルブンバシの市中まで薬を買いに毎週通ったそうである。
Vision Mondialeが井戸掘りと産院建設をした。電気のトランスが修道院の庭にある。停電がほとんどない。水と電気が確保されているのは大きなメリット。
診療所にイタリア人グラツィエラ看護士がいた。在コンゴ15年。診療所といっても簡単な施設だ。受付、診察室、治療室(予防注射もここ)、ラボ、一時入院のベッド・ルーム、薬剤室と待合室。
産院は、診察室、産室、産後のベッド・ルーム。保育器はあったが故障していた。その他機器も使えなくなっているものが多い。しかし一応清潔。この清潔さ故にルブンバシの市中や遠距離からここで出産するために来る妊婦がかなりいる。
女子裁縫中学も小さい。ミシンがおいてあったが、足踏み式のシンガーもあった。注文生産もしているが、ここで仕立てて行商販売するおばさんもいる。裁縫だけでなく、一般教養(国語、数学等)も教えている。ただし授業は午前中のみ。教員室。実習室、4教室。2教室増設中。ひとクラス15名内外。
今、ゴルフ地区にフランシスコ会が作ろうとしているのは、タバ・コンゴの施設と同じようなタイプだ。デラックスな施設を目指しているのではない。質素でいい。しかし、直ぐに壁が崩れたりする粗末な建物では困る。ゴルフ地区の外れには他に極めて小規模な診療所しかない。建設資金を募集している所以である。



西サハラ問題 Le ministre des AE de la RDC réitère le soutien immuable de son pays


モロッコの新聞報道だから取り上げられたサハラ問題かもしれない。コンゴ(キンシャサ)にとって西サハラ問題は遠い世界のことだと思う。外交のリップ・サーヴィスだろうが、DRC外務大臣がモロッコにコンゴの外交政策が変わらないこと、従ってサハラ問題で全面的にモロッコを支持すると表明した。
西サハラ問題とは、 1976年スペインが退去して以来、アルジェリアとモロッコの間で争われている領土問題である。アルジェリアは西サハラの独立派に加担してモロッコと国交断絶をした。モロッコは領有を主張して譲らない。僕からみると、アルジェリアによる西サハラ住民(population saharaouie)の煽動である。現在のアルジェリアにとっては、ブームディエンヌ時代のお荷物だが、当時の外務大臣ブートフリカが大統領をしている間は、モロッコに譲歩はできまい。そういった誇り、否、意固地だけはあるアルジェリアである。
コンゴ(キンシャサ)は、モロッコに加勢する外交でいい。アルジェリアと付き合うメリットは更々ないのだから。
Le ministre des Affaires étrangères de la République Démocratique du Congo (RDC), Alexis Thambwé-Mwamba, a réitéré, mardi à Kinshasa, le soutien immuable de son pays à la marocanité du Sahara, indique un communiqué de l'ambassade du Maroc à Kinshasa.
Lors d'un entretien avec le secrétaire d'Etat auprès du ministre des Affaires étrangères et de la Coopération, Mohamed Ouzzine, le chef de la diplomatie congolaise a tenu à réaffirmer la position immuable de son pays quant à la question du Sahara et son soutien constant à la souveraineté du Royaume sur ses provinces du Sud.Pour sa part, M. Ouzzine a rappelé la position du Maroc envers la République Démocratique du Congo marquée par un appui inconditionnel à son intégrité territoriale.
(Le Matin.ma)

英国もDRCに投資再開 Le Royaume Uni envisage engager de nouveaux investissements en RDC

モブツ副首相と新任の在コンゴ(キンシャサ)英国大使との間で交わされた会談で英国側が投資再開宣言をしている。モブツはモロッコで亡くなった元大統領の長男である(乞本ブログの「内閣改造」の項参照)。
2006年に選出されたカビラ大統領の任期が来年切れるが、確実にこの国に平和が戻ってきている。英国も手をこまねいてはいられないということだ。海外投資がない限り、基本的に雇用問題、貧困問題は解決しない。、
Le Royaume Uni envisage engager de nouveaux investissements en RDC, selon le nouvel ambassadeur de Londres à Kinshasa
Kinshasa, 06/05/2010 / Politique
Le nouvel ambassadeur de Grande-Bretagne en RDC, M. Neil Wegan, qui a été reçu en audience par le Vice-premier ministre Nzanga Mobut a révélé à son hôte que son pays le Royaume Uni se dispose à engager de nouveaux investissements au Congo démocratique.
(digitalcongo.netから)

mardi 4 mai 2010

独立50年サイト site du 50ème anniversaire de l'Indépendance


来月6月30日は1960年の独立から数えて50年目。独立50周年記念式典が首都キンシャサを初め各地でとりおこなわれる。
独立50周年公式サイトができた。
http://www.cinquantenaire.cd/
日本はこの式典に誰を派遣するのだろう。モブツ時代なら首相級か皇太子出席もありえたろう。今や、世界最貧国のコンゴ民主共和国に注目してくれる日本の閣僚は、ODAを削って喜んでいるような民主党政権では、誰もいないかもしれない。今一度、コンゴがどんな国なのか考え直してみては如何ですか。中国からは首相が来ると思われる。
(写真はジョゼフ・カビラ大統領)

dimanche 2 mai 2010

ルブンバシ柔道大会 Compétition de judo à Lubumbashi

(voir le ésumé en français en bas)
メーデーに柔道大会に招待され、SNCC(国鉄)の道場で見学。主催はL'entente de Judo de Lubumbashi(ルブンバシ柔道連盟)。13時開催が14時になった。ま、そう退屈して待っていたわけではないから目くじらをたてることもない。州のスポーツ大臣は欠席。代理として参事官(女性)が来て試合開始となった。5チーム参加予定が、1チームは参加費用が捻出できず、またもう1チームは時期尚早との理由で不参加。3チームで試合が行われた。軽量級が圧倒的に多く20名以上。重量級は2名のみ。審判は柔道2段のふたり。
練習のときは、柔道着がない選手も半数ほどいた。試合のときは他の選手の柔道着を借りて望んでいたので、必ずしもサイズが合わず、試合にも影響したようだ。タタミはここもおが屑のマットだった。ともかく持っている手段の中で遣り繰りをして、情熱で戦っているという印象だ。
嘉納治五郎先生の写真が壁に貼ってあった。
応援団が派手はでしい。試合中もアドヴァイスなのかどうなのか叱咤激励。応援する選手が勝つと大喜びで踊りだして大騒ぎ。賑やかである。
決勝戦は明日だそうだ。
le 1er mai, jour férié ici aussi, on m'a invité à la compétition des clubs de judo de Lubumbashi tenu par son Entente qu'il y avait lieu à la salle de judo de la SNCC (SN Chemin de fer du Congo). Prévue à 13h00 avec la présence du minstre provincial du sport mais commencée à 14h00, pas grave, je n'étais pas ennuyé en ragardant la préparation des judokas lushois. Les 3 clubs participants au lieu de 5, car un club qui manquait le moyen financier, un autre jugeait trop tôt pour arriver au niveau de la compétition. Plus de 20 judoka de la catégorie -60kg, seuls 2 judoka de -95kg, mais ils étaient tous jeunes. Il y avait 2 arbitres judokas de 2ème dan. J'ai constaté dans cette salle non plus il n'y avait pas de tatami mais un carré rempli des sons de bois et simplement bâché comme la salle de judo à l'UniLu. Les compétiteurs judokas se partageaient entre eux des judogis (vestes et pantalons). Mais leur passion était là !
Une photo de Kano Jigoro au mur.
Les supporters étaient très animés, lorsqu'un favori a gagné, ils criaient et dansaient. Amusant.